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カミオカラボスタッフ自己紹介2 〜二度の飛騨市移住〜

ニュートリノ!ひだ宇宙科学館カミオカラボ、サイエンスコミュニケーターの高知尾です!

今回は、改めて自己紹介記事を書かせていただきます。

1988年に埼玉で生まれた私は現在、岐阜県飛騨市に住んでいます。

実は、この街で暮らすことを決めたのは人生で二度目です。

一度目の飛騨市移住

一度目は2011年、大学院生の時。宇宙に存在すると考えられている”ダークマター”の観測研究を行うために同級生とともに東京から富山駅まで新幹線に乗り、そこからバスで飛騨市の最北端にある研究所に向かいました。

研究所は飛騨市の中心街から離れており、バス停に降りると近くには店1つ見当たりません。これから5年間、ここで研究生活か…と、期待と不安に胸を膨らませていました。

新しい土地に赴いたときは必ず、近所を歩いて回るのが習慣です。その週末には早速、研究所から最寄りの駅まで約2時間の道のりを歩きました。その道程のほとんどの時間、首輪を付けた放し飼いの犬が付き添ってくれました。飛騨市に来て、初めてできた友達でした。

研究生活ではワクワクすることがたくさんありました。博士過程の後半(大学院に入って4年目)になるとようやく、論文などで学んだことがそのまま研究に活きてくる実感を感じられるようになりました。パソコン画面に表示された解析データの中に宇宙の真理が隠されているかもしれないと興奮した瞬間もありました。

一方で、博士課程の後半は非常に悩んだ時期でもありました。研究が思うように進まない焦り、不甲斐なさ、その他諸々のストレスから、途中で辞めようと何度も思いました。

そんなときに出会い、救われた金言をここに記しておきます。チャーリー・チャップリンの映画「ライムライト」の劇中での台詞です。

「人生に必要なものは勇気と想像力、そしてほんの少しのお金だ」

サイエンスコミュニケーションとの出会い

“サイエンスコミュニケーション”という言葉に初めて出会ったのは一度目の飛騨生活が始まって数ヶ月後のことです。当時、東日本大震災の直後で福島第一原子力発電所の状態が不安定な期間が続いていました。

たまたま見ていたワイドショーで、放射線や原子力の専門家を招いてのリスクや現状の解説が行われていました。しかし、不確定で時々刻々と変わっていく情報の中、専門家は伝えるべきことを伝えられず、司会者は引き出すべき情報を引き出せていないという印象を受けました。

科学を役に立つ情報として伝えることは、こんなにも難しいのか…と愕然としたのを覚えています。

そこで自分なりに調べて見つけた言葉が、”サイエンスコミュニケーション”でした。

詳細は省きますが、その後なんとか博士号を取得した私は東京の某科学館で科学コミュニケーターとして働き始めます。

二度目の飛騨市移住

科学館で働き始めて1年くらい経過した頃、飛騨市に新しく科学館ができるという話を耳にしました。そして、飛騨市職員になるための公務員試験を受け、2019年4月から正式にカミオカラボのサイエンスコミュニケーターとして働かせていただくことになりました。

地元の方々からはしばしば、「どうして東京から飛騨に戻ってきたの?」と不思議がられることがあります。

確かに、東京は賑やかでお店もたくさんありました。全く知らないコミュニティと出会う頻度も多かったです。それはそれは刺激的でした。

でも、私からするとこの街も負けない魅力に溢れています。

まず日本でも有数の、宇宙の「謎」を追い求めている実験施設(スーパーカミオカンデ等)を有する街です。世界中でまだ誰も知らない真実が、この街から解き明かされています。

また、かつては鉱山の街という日本の工業に欠かせない場所であり、その後、1983年に”カミオカンデ”が完成して科学の街となった経緯があります。さらに2027年には宇宙の行く末を占うための”ハイパーカミオカンデ”が観測を開始します。まさに、過去から未来に繋がる物語を持った街です。

すでに見えているものではなく、目に見えない魅力が見えてくるプロセスは目に見えない”ダークマター”を探していた私としては、ものすごく刺激的なことです。

そして、外から来た私を2度も受け入れてくれる懐の深さを持つ街でもあります。

今や、友達は最初に出会った人懐っこい犬だけではありません。日々、面白いことに挑戦している方々が周りにたくさんいます。その方たちから毎日、刺激をもらっています。

ということで、カミオカラボにお越しいただいたら科学のことはもちろん、飛騨のこともお話しできれば嬉しいです。私も、それまでにもっと飛騨のことを語れるように学んでおきますので。

それでは!

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